絵を描くということ、誰にも邪魔されない超個人的な空間に入り込むということ

 こちらに住んでみて、絵を描く。

その時に改めて思ったのが、やはり私にとって絵を描くということは”超個人的な事”であるということだった。

過去吹部で楽器を極められるように集中できたのも、超個人的な一人の練習時間を、誰にも咎められたり、駄目だしされたり、一つのことをやろうと頑張っている時間が本当に超自由だったからだった、ということを考えると心の底から合点がいく。

つまり、親に干渉されいちいち何かと言われるような(つまり、自分とその親との境界線が曖昧な)状況下では、自分のパフォーマンス(というか一つのことを極めようとしたり目指してるところを想像しながら集中したり)を十分に発揮できない、というまあ私の性格的に最も理解のできることを、この3~4年間ほど、わかっていたのにもかかわらず、部活の時と違い、家といういつでも親が干渉できる場所で練習したり集中したりすることなどまず間違いなく無理だったのだ。自己パフォーマンスの悪化を著しく招いていた。入学当初は、ここまで干渉されると思ってなかったので、想定できなかったのだ。馬鹿だ本当に。あくまで私が一番いろいろな事で最大限にパフォーマンスができる状況下というのは、親の目の届かないところだということをすっかり忘れていた、ということを思い出すことができた。

と、思考の中だけでぐるぐる考えていると、なんだか今までうまくできなかった自分に対しての言い訳のようなので、しっかりと(めちゃくちゃだが)文章として視覚化し、自分自身で、そうだこういう理由がしっかりあったのだと、納得できるようでないと、本当に前に進めない。

 

無理はするなと言われた。もちろん無理をすることで招く最悪の結果を知っている。しかし理解のない人は遠慮なく境界線を破ってあれやれこれやれと言ってくる。しかし私は今日、ちゃんと自分がおかれていた状況を親身になって(というかプロの方なのでもちろんめちゃくちゃ信頼できる)話を聞いて、そのうえで無理をするなと言ってくれた人の言葉を信じて行動する。まわりになんと言われようと、私は私のペースを崩したりはしない。私は私だ。あなたではない。私には私なりのルールや生き方や信条、そして体調や精神状態がある。特に精神状態というのは表面には見えないので理解されづらい。しかし、生まれてこの方私は私である。私のことは私が一番理解している。周りの人にわからないことがあっても当たり前だ。私は私を守る。そのことが一番私を、私の周りにいる人に対して貢献できる行為であると信じている。